振り下ろされた剣がアルトルージュの細い首筋に叩き込まれんとした刹那、

――――キィン!

 彼女と剣の間に透明な赤い壁のようなものが生じ、剣は澄んだ音をたてて弾き返された。

「ち!」

「え?」

不意打ちを防がれた襲撃者はその苛立ちを舌打ち一つに止め、即座に次撃を放った。

再び展開される赤い障壁。だが今度のそれはガラスの砕かれるような音と共に粉砕され、剣の勢いを僅かに弱めただけに留まった。

しかしそれで充分。既にアルトルージュは十数メートルの距離を跳び退いている。振り抜かれた剣は数瞬前まで彼女がいた空間のみを切り裂いた。

 

 

 

永月譚〜月姫〜序章‐第三話

 

 

 

(……危なかったわね)

アルトルージュは表面上は動揺を見せず、己の耳に触れた。

そこには小さなイヤリング。だがそこに取り付けられていた紅い石は粉々に砕けていた。

『防護』の呪式、それも持ち主が反応できなかったモノを防ぐように編んだものを付加しておいたのだ。

アルトルージュは戦闘者ではない。ある程度気配を探る能力は持っているが、気配を隠せるだけの技量の持ち主がいた場合、それを看破する術が無い。

それ故の備え。不意打ちや奇襲だけに反応するように設定するのはかなり骨だったが、苦労しただけの甲斐はあったようだ。

自らの作品の確かな効果に満足しながら、彼女は油断無く襲撃者を見据えた。

血で染め抜いたかのような赤黒いコートを長身痩躯に身に纏い、身の丈ほどもある大剣をせいぜい木刀程度の気軽さで片手に携えている。

無造作に伸ばされた前髪から覗く赤い眼には“凍える熾火”とでも言うべき独特の冷たい熱さが宿っていた。

見知らぬ相手。だがその容姿は彼女の持つ情報の中に存在していた。

「初見から熱烈なご挨拶痛み入るわ、復讐騎――エンハウンス」

 

死徒二十七祖が十八位、復讐騎エンハウンス。

その名が世に広まったのはほんの数十年前の事だ。

当時の十八位が自らの“子”に殺され、その地位を奪われた。ここまでならそう驚く事ではない。

だがその新しい十八位は復讐と称して同族である死徒を手当たり次第に狩っていると言う。これはその彼が未だ死徒になり切らず、人としての部分を残している証拠だ。

それは本来在り得ない事。

吸血鬼に成った者は自分の意思で活動できるが、親である吸血鬼が血を送り込むことで自身の一部として認識しているためその支配・使役から逃れられない。

自己を強化する事で支配から逃れる事は不可能では無い。だがそれには長い時間吸血し続け、力を蓄える必要がある。

“親”に逆らえるようになった時にはその“子”もまた完全な吸血鬼となっており、その時には同族を憎む気持ちなど廃れているのが常だ。

だが……何事にも例外というものがあり、この件において彼こそがその例外に他ならなかった。

死徒としては何もかもが不完全な存在でしかない彼によって、幾多の死徒が滅ぼされた事か。

いつしか彼は怖れと蔑みを込めてこう呼ばれるようになった。

自らの復讐の為に死徒を狩る復讐騎。半人半魔の片刃(エンハウンスソード)と。

 

アルトルージュもまた死徒−しかもその象徴と言ってもいい姫と呼ばれる存在である以上、いずれこうやって対峙する事もあるだろうとは思っていたが……

「まさかこんな所でお目にかかれるとは思わなかったわ。まさか……貴方がこの街をこんなにした張本人なのかしら?」

エンハウンスは隙あらば斬り掛かろうと窺っていたが、アルトルージュがそんなモノを容易に晒ないと悟ったのか視線は外さぬまま口を開いた。

「そうだ……と言ったらどうする?」

「嘘ね」

「!?」

鋭く断じたアルトルージュにエンハウンスはわずかに身を震わせた。

「何故……嘘だと貴様にわかる」

「あら、簡単な理屈よ。仮にそうなら貴方がまだ人の部分を残している筈がない」

 血を吸えばそれだけ吸血鬼として完成に近付く。街一つを飲み干せばもう人の部分など残る余地は無い。

 そしてエンハウンスから感じる気配は未だ死徒としては弱すぎる。

「貴方がまだ半端者である事が何よりの証拠よ。そして今まで孤高を保っていた復讐騎が誰かと組む以上、それが個人レベルの小事の収まるとも思えない。ならば尋ねましょう。本当の犯人、そして貴方達の後ろにいる存在の名を」

「成程な。『黒の姫君』……名前だけのお飾りではないと言う事か」

エンハウンスは前髪を掻き揚げながらそう呟いた。その声、そして覗く瞳にはわずかに見直したような色がある。

「そうだな……死徒の女王に敬意を表して答えられる範囲で答えよう。確かにこの街の人間を襲ったのは俺じゃない。一応そいつと共闘関係にあるという点では俺にも責任の一端が無いとは言えんが」

「この街には二体の死徒が来ていたと言う事ね。でも素直に言ってしまっていいのかしら? 今姿を見せていないという事は、そのパートナーさんはどこかで私に襲い掛かる機会を窺っているのではなくて?」

「構わん。そいつは今もう一人の生き残りを始末しに行っているからな」

「それは――」

あの、奇妙な少年の事か。

「当初の計画ではまず人間の退魔士をぶつけ、多少なりとも消耗したところを二人がかりで仕留める予定だった」

成程、とアルトルージュは声に出さず納得した。

あの少年が彼らによって呼び寄せられたのであれば、このタイミングでここにいるのにも合点がいく。

「だけどその予定は狂わされた。彼は私と戦おうとはしなかったから」

「ああ……腕利きを呼んだと聞いていたが、想像以上に臆病だったようだな」

「違うわね。彼は私がこの件の犯人では無いと見抜いたわ。貴方達が利用できる程小さな存在ではなかったと言う事よ」

断言してやる。エンハウンスの視線がさらに強くなったがアルトルージュは構わず続けた。

「それで? 貴方はこれからどうするつもりなのかしら? 三人がかりで倒す予定の相手と、まさか貴方一人で戦うとでも?」

「無論だ……俺の目的は始めから貴様一人。今日この場所に貴様が現れたのは俺にとって願ったりの展開だ。それに……元より仲間等作った覚えも無い」

 そういう事か。

 全ての死徒の殲滅を悲願とするエンハウンスにとって最大の障害はおそらく自分……正確には自分を守護するプライミッツマーダーだ。

 『絶対殺人権』を持つ白い魔犬にヒトというカテゴリーに属するモノたちは太刀打ちできない。

 強い弱いのレベルでは無い。言ってみればそれはジャンケンのグーとチョキ。プライミッツマーダーというグーにヒトというチョキは絶対に敵わない。

 そしてそれはエンハウンスも例外では無い。人としての部分を残した彼がプライミッツマーダーを、ひいてはそれに守られたアルトルージュを打倒する事は在り得ない。

 それ故に彼は誰か……プライミッツマーダーに対抗しうる完全な“魔”と手を組んだのだろう。

「最後の質問よ。貴方の裏にいる者の名は?」

「それを教える気は無い。一応そういう契約だからな」

「そう……まぁ別に構わないわ。概ね予想が付いているし。何なら貴方の脳から直接聞き出してもいいし……ね」

「……言ってくれる」

スッとエンハウンスが右手の大剣を構える。呼応するようにアルトルージュも両手をわずかに持ち上げた。

 

 

 

――タンッ!

アルトルージュは後方へ跳躍する。

得物を持つ相手に対してこちらは無手。加えておそらく戦闘技能でも及ぶまい。

エンハウンスは死徒として欠陥だらけ。超抜能力も無く、基本性能ですら劣る彼がそれでも強力な死徒達を屠って来れたのはスペックのハンデを補えるだけのスキルを持っているからだろう。

接近戦においてこちらが有利と思える材料は皆無。ならばまず間合いを取るのは当然の判断だ。

だからこそ――その判断は相手にも予想の範囲内となる。

一度目の跳躍を終えた時、むしろ縮まっている距離にアルトルージュは顔を顰めた。

速い。半人半魔と侮ったつもりは無いが、やはりどこかで甘く見ていたのか。彼の速度はアルトルージュの想像を大きく凌いでいた。

単純なスピードで振り切る事は不可能。牽制が必要だ。

傍らの家の壁に手を伸ばす。そこに暴風のような斬撃が来た。引くのが半瞬でも遅ければ、片腕を持っていかれただろう。

「貴様の能力は見せてもらった。手で触れたモノを分解し、望むままに再構築する。『破壊』と『再生』が貴様の能力だな」

 言葉の合間にも攻撃の手は弛まない。振り下ろされ、薙ぎ払われる大剣に、無手のアルトルージュができる事は身を捻って躱す事だけだ。

 それもそう長くは続かない。回避の度に体勢は崩れていく。躱せて、あと数回か。

「だが貴様の能力は手で直接触れなければ発現しない。何もできぬまま死んで逝け」

「……あまり舐めないで欲しいわね」

さらに力強く剣を振り上げたエンハウンスにアルトルージュは左手の人差し指を突き付けた。

そこから黒い塊が猛烈な勢いで連射される。

一発目。咄嗟に首を振ったエンハウンスの頬を掠める。二発目。肩口に当たりその長身が揺れた。三発目。ついに身体の真芯を捉えた。

あとはつるべ撃ち。胸に、腕に、足に。当たるを幸いに黒弾を叩き込む。

それはガンドと呼ばれる呪いの魔術だ。本来相手の体調を崩させる程度の代物だが、使い手の魔力次第では本物の弾丸さながらの凶器と化す。

加えてガンドの利点は一工程(シングルアクション)で放つ事が可能な点だ。攻撃速度と威力を合わせ持つ魔弾が与える戦闘時のアドバンテージは時に大魔術を凌ぐ。

魔術師達の間で“フィンの一撃”と呼ばれるそれが拳銃だとするのなら、アルトルージュの桁違いの魔力が込められたそれは大口径の重火器に等しい。

その威力にたまらずエンハウンスは後退した。剣を身体の前に掲げて盾としつつ間合いを取る。十メートルも離れればエンハウンスの能力ならガンド撃ちを完全に捌く事も可能だろう。そうなればこの術で相手の動きを止める事はできない。むしろ慣れてゆく分向こうの助けとなる。

だから即座に切り替えた。速射性重視のガンドから逃がさぬ為の広範囲のモノへと。

アルトルージュの形の良い唇が、小さく、ただ一言を漏らす。

“炎”と。

 

それは最も初歩の発火の魔術だ。呪文詠唱とは自分に投げ掛け、自己暗示を以ってその身に刻んだ魔術を起動させる為のモノ。故に基本的に高位の魔術ほど長い詠唱が必要になる。

一小節にも満たない一言で紡げる力など高が知れている。せいぜい小さな火や微風を起こす程度だろう。

だがアルトルージュの一言はそれだけで彼女とエンハウンスを結ぶ路地を炎で満たした。

例えチャチな水鉄砲でも吐き出す水量が莫大であれば大砲に匹敵する破壊力となる。アルトルージュのしたのは要するにそういう事だ。最小限の工程で最大級の威力を生み出すのは先程のガンド同様圧倒的な魔力を持つが故の離れ業と言えよう。

だが、アルトルージュと同じくエンハウンスもまた只者では無い。

迫り来る炎の波に己が剣を叩き付ける。まるでガラス細工か何かのように炎は砕け散った。

無論只の剣でそんな芸当ができる訳も無い。彼の持つ大剣は先代十八位のコレクションから拝借した強力な力を秘めた逸品だ。

その名を『魔剣アヴェンジャー』。復讐騎の得物としてこれほど相応しい剣もあるまい。

放たれる魔術の悉くを魔剣の一振りが掻き消してゆく。直撃すれば無傷では済まないであろうそれがエンハウンスの身体に傷を付ける事は無かった。

だが――今彼の身体は着実にダメージを積み重ねていた。

魔剣を振るう右腕が、イタイ。

アヴェンジャーの放つあまりに凄まじい魔力が、使用の度に彼の腕にまで流れ込み、その神経系をズタボロにしてゆく。

しかしそれでいい。その痛みこそが彼の怒りを、憎しみを、復讐心を維持し、増幅し、闘争心へと変換してくれる。さらに殺意を固めて彼は前に出た。

既に相手の魔術は見切っている。

固有能力がこの世に一つしかない特殊な武器だとするなら、魔術は有り触れたポピュラーな量産兵器のような物だ。

使い手によって威力、技能に差はあれど、その原理に大きな違いがある訳ではない。

特に今アルトルージュが使用している魔術は威力こそ凄まじいが低位のモノ。魔術師との戦闘経験も多く持つエンハウンスにとって発動を察知し、狙いを見切るのはさして難しくはない。

飛来した冷気の塊を切り裂いて、彼は一気に駆け出した。眼も慣れた今ならアルトルージュが再びガンドに切り替えても捌ききって懐に飛び込む事が可能だ。

果たして、それは現実となった。

続けて放たれた数撃を、エンハウンスは完全に見切って無効化する。彼我の間合いは既に瞬きの距離。

能力も使えず、魔術も破られたアルトルージュにもはや反撃の術は無い。

獲った。その確信と共に必殺の斬撃が放たれた。

彼女に許された最後の抵抗と言えば、辛うじてこちらに右手を向けることだけ。そんなもの、魔剣の前には盾にすらなりはしな

――待て。そう言えば、彼女はこの戦いの中でまだ一度も右手を使っていなかったのではなかったか。

エンハウンスがそこに思い至った時、既に彼は激しい突風に吹き飛ばされていた。

 

エンハウンスはアルトルージュの能力を正確に分析した。

確かに彼女の能力はモノに直接触れなければ効果を発揮できず、対応策として何も触れさせないようにするのは間違っていない。

彼に落ち度があるとすれば……その最善な、しかし不可能な方法でアルトルージュの能力を封じる事ができたと思ってしまった点だ。

一見何も触れていないように見えて、その実彼女はずっとあるモノに触れているのだから。

それは――辺り一帯に満ちている空気。

エンハウンスを牽制する傍ら、アルトルージュは右手で周囲の空気を少しずつ液化・圧縮させていたのだ。

無論その際には多少の力の流動があるが、魔術の魔力に紛れてそれはほとんど察知できない。

あとはそれを一気に気化してやれば、爆発的に膨張した空気は衝撃波を生む。

能力は封じたという先入観、そして魔術に対して感覚を研ぎ澄ましていたエンハウンスにとって、それは察知できぬ完全な奇襲だ。

策は成った。だがこれで倒せたと思う程エンハウンスは甘い相手ではなく、アルトルージュは呑気ではない。

これも単なる時間稼ぎ。真の狙いは次の一手にある。

王手をかけるべく、彼女は己を解き放った。

 

光が満ちる。

赤い、朱い、紅い光。

それが収まった時、エンハウンスの眼に映ったのは先程までのアルトルージュでは無かった。

子供然としていた姿は今や十代後半まで成長を遂げていた。

しなやかに伸びた肢体からは幼さが抜け、元より非の打ち所の無かった美貌はより完璧に近付いた。

加えて全身から放たれる視覚化できそうな程に強烈な“力”の気配は正に死徒の姫と謳われるに相応しいものだ。

「なん……だ、と……」

起き上がり呆然と立ち尽くすエンハウンスに、アルトルージュは不敵な笑みを浮かべた。

「さぁ……第二ラウンドといきましょうか」

 

 

 


 

後書き

という訳でウチのアルト様は魔術が使えます。

変身しない限り大した能力が使えないなら、護身用に色々身に付けてそうだな〜と。

ガンドを使わせたのは、比較対照用と言う事で(笑。

 

対戦相手にエンハウンスをチョイスしたのは色々理由もありますが、初戦と相手として強すぎず弱すぎずのイメージがあったので丁度よいかと。

アヴェンジャーとかにも独自設定入れていくつもりですよ〜。

 

 

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