燃えている。彼が生まれてこの方育まれてきた場所。彼の世界の全てと言っていいモノが。

 

母と共に寝起きした家。あの人に扱かれた森。あいつと駆けた川辺。

 

いや、森だけではあるまい。そこに生きていた者達も容赦無く道連れにして、森は灼け落ちていく。

 

不思議と哀しいという気持ちは湧かなかった。

 

いずれこうなるのだと。自分たちはそういう生き方をしてきたのだととうの昔に知っていたのだから。

 

ただ……それなりに気に入っていた日常が終わってしまうのが、少しだけ残念だった。

 

だからだろうか。最早どうする事もできないとわかっているこの状況下に置いて、足を止める気にならなかったのは。

 

彼は何かを求めるように炎の森を歩き回り、そこで――朱い鬼に出会った。

 

 

 

永月譚〜月姫〜序章‐第十話

 

 

 

「――――!?」

身体が粉々になった衝撃で眼が醒めた。

古い夢。正確には古い記憶か。夢を見る事など果たして何年ぶりか。しかもあの場面の夢など。

そこまで考えて微かな違和感を感じた。あの夢には明らかにおかしい部分がある……と思うのだが、寝起きのボンヤリした頭ではそれがどこかわからない。

それにしても自分の死に起こされる等、想定される様々な起き方の中でも最悪の部類に入るだろう。

そう思っていた。たった今眼を開くまでは……だが。

視界を埋め尽くす男のドアップ。そこまでならまだ許容範囲だ。

しかし唇を突き出し、あまつさえ徐々にこちらとの距離を詰めて来るその動きを見れば何て言うか最悪である。

相手の顔立ちはかなり整っており、こちらが純情な乙女なら望むところな展開なのかも知れない。

だが生憎こちらにはそっちの気は無い。よってこういった事態に対する至極常識的な対応を取らせてもらう事にする。

横たわっているのが柔らかいベッドである事を利用して素早く、可能な限り頭部を下げる。そして全力で上方へ移動させた。

わかりやすく言うならヘッドバットだ。

「うぼふぉ!」

顔面の中心に硬い額を叩き込まれた男は奇妙な呻き声を上げながら仰け反った。

すかさず布団を跳ね上げてそのこめかみに左拳をフルスイングする。たまらずベッドから転げ落ちる――そこでようやくその男が白いスーツのような服を着ている事に気付いた――白い男。

こういう時に大事なのは下手に情けをかける事ではなく、もう二度とケッタイな考えを起こさないように徹底的に叩く事である。

トドメを刺すべく自身もベッドの上に起き上がり……右足がほとんど動かない事に気付いた時には手遅れだった。

無様にバランスを崩し、ベッドから転げ落ちる。ギプスで固定されていた右足が大きく弧を描くのが視界の端に映った。

それが地面に叩き付けられる際の激痛を覚悟して身を固めたが、しかし伝わってきたのは形容しがたい感触であった。

「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」

同時に声にならない絶叫が部屋中に響き渡る。

流石に少々驚いて発生源たる男の方を見やった。視線の先では件の男が自分の股間を押さえてのた打ち回っている。

「あー……」

大体の状況が呑み込めてしまった。幾らなんでもそこまで非道な行為に及ぶつもりは無かったのだが……。

「慧! こう色々な意味で無事!?」

「姫様! どうかこちらにお座りを!」

車椅子を押す男とメイドを引き連れ、杖を手にしたアルトルージュが現れたのは、この事態をどうしたものかと慧が途方に暮れたちょうどその時だった。

 

 

「別に気にする必要は無いわよ。フィナのあれは殆ど自業自得だもの」

「でもな……」

パタパタと手を振りながら気にするなと言うアルトルージュに、ベッドに戻った慧はバツの悪そうな声を漏らす。

それがおそらく彼の悔恨の表情なのだろう。その眉尻はほんの少しだけ下がっていた。

「止めておきなさい。下手に謝ろうものなら、また碌でもない要求をするに決まっています」

「むぅ……」

「でもそれはそれで興味ぶぴきゃ!」

 背後に控えていたメイドが自分の台詞を言い終える暇も与えられず卒倒する。いくらクッションでもあれだけの勢いで顔面に喰らえば、そりゃ痛かろう。

 振り返りもせずにそれを成したアルトルージュは何事も無かったかのような満面の、しかし妙な圧迫感を与える笑みを浮かべて続けた。

「慧も嫌でしょう? 嫌よね? 自分を安売りするのはよくないってリィゾも言ってたし」

「……貞操教育が行き届いてるんだな」

「当然です。他者の上に立つ者は仕える者達の範になるべきだもの。自分で自分の価値を下げるのは愚者の行いよ」

「ご立派」

ぱちぱちと拍手する慧。と、その表情が歯にモノが挟まったような困惑したものに変わった。

「? どうしたの慧」

「いや……昔の夢を見た気がするんだが、今の騒ぎで忘れた」

「夢なんてそんなものでしょう?」

「そうなんだが……なんか引っかかる部分があったような」

首を捻りながらもまぁいいかと呟く慧に頷き、アルトルージュは話を進める事にした。

「とりあえず紹介しておくわ」

アルトルージュはそう言って背後にいる黒いスーツを着た長身の男とメイドの少女を指し示した。

その言葉に男の方がこちらに向き直る。先程倒されたメイドは男が押して来た車椅子に座らされていた。

「こっちがリィゾ=バール・シュトラウト。名前を聞いた事くらいはあるでしょ?」

「ああ」

頷く慧にリィゾは顎を引くように頭を下げた。

「そっちでのびているのはリリィ。私専属の侍女よ。顔を合わせる事も多いと思うから名前くらいは覚えてあげてね」

「わかった」

「それで貴方の現状だけど……まぁわかっているとは思うけどここは私の城。貴方が到着前に眠ってしまったので、申し訳ないけど無断で手当てさせてもらったわ。起こすのも悪いと思ったし。ここまでは問題無いかしら?」

「ああ」

「ん。貴方の負傷は肉体を酷使した事による疲労と打撲に裂傷。いずれも大した事はないみたいね。問題の足とアイツに蹴られたお腹の方も深刻なダメージにはなっていなかったわ。全治一週間ちょっとって所かしら。その間この城に滞在してくれて構いません。ただ……」

ここでアルトルージュは言い辛そうに口篭る。訝しげな視線を送る慧に、アルトルージュの後方からリィゾがその言葉の続きを奪った。

「申し訳ないのだが、城に滞在する間は極力この部屋から出ないで頂きたい」

そう言い放つリィゾの声は極力感情を抑えていたが、注意深く聞いていればそこから微かな警戒心を読み取る事ができただろう。

「君が眠っている間に少しだが君の事を調べさせてもらった。七夜慧。一見典型的なフリーランスの退魔士に見える……が、君は過去に何度か聖堂教会、それも埋葬機関と接触を持っているな」

その事か、と慧は納得した。

確かに彼は埋葬機関のメンバーの一部と面識があり、何度か共闘したり、その依頼で動いた事もある。

と言ってもそれは偶発的な遭遇や、体良くこちらを利用しようと言う思惑に敢えて乗っただけの細すぎる繋がりだが、見方によっては確かに慧は埋葬機関が外部に確保している手駒と取れない事も無い。

「成程……つまりアンタ達は俺が教会の命令なり依頼なりを受けて動いているんじゃないかと警戒してるんだ?」

「まぁそういう事だ。そして君の方にもそれを否定する材料はあるまい?」

「無いな」

アッサリ認める慧にアルトルージュは申し訳無さそうな顔を向ける。

「本当に御免なさいね。私としても命の恩人にこんな仕打ちはしたくないのだけど……私達の立場も色々と複雑なのよ」

「だろうね……」

例えどれだけヒトに協力的な態度を取ろうとアルトルージュ達もまた死徒である事には変わりなく、優先順位の下位に回されていても聖堂教会にとっては標的の一つである事もまた変わらない。

つまるところ殺せるチャンスがあるならそれを躊躇う理由は向こうには無いし、それが今でないという保証も無い。

増してやトップが襲撃を受けたばかりなのだ。少しばかり過剰に警戒心を働かせるのはむしろ自然だろう。

「その件に関しては了解した。元より他人の家をうろつく趣味は無いし、体が治るまで大人しく寝てる事にする」

「そうしてもらえると有難い」

「代わりと言っては何だけど、それ以外の面では出来うる限りの便宜を図らせてもらうつもりよ」

そう言うとアルトルージュは未だ気を失ったままのリリィの首筋に手刀を打ち込んだ。

「はう!……はえ?」

それでは逆だという慧とリィゾの内心のツッコミを裏切って、意識を取り戻すリリィ。その頭上にハテナマークが乱舞しているのを爽やかに無視し、アルトルージュは彼女を慧の方に押しやった。

「慧にはこの娘を付けるわ。要望があったらこの娘に言いつけて頂戴。ほら、挨拶なさい」

「は、はい〜。七夜様、リリィと申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします〜」

未だ状況が呑み込めていないだろうにその辺りを全く感じさせない笑顔はメイドの鑑と称えるべきだろうか。

後の事は彼女に任せると言ってアルトルージュ達は退室していった。

「……リリィ、だったよな」

「はい。何なりとお申し付け下さい」

一部の隙も無い接客スマイルを浮かべる彼女に、慧は最初の要求を伝える事にする。

「とりあえず何か食わして」

その台詞とほぼ同時、丸二日眠っていた慧のお腹の虫がぐーと鳴った。

 

 

アルトルージュと共に退室したリィゾは主をその自室まで送った後、ある一室を訪れていた。

一応の礼儀としてノックをし、自分である事を告げてからドアを開ける。

「ああ、リィゾ! 心配して来てくれたんだね!? やはり持つべき者は心優しきパートナぐばぁ!!!」

途端に跳び付いて来た白いナマモノを拳の一撃で沈黙させ、室内に備え付けられている椅子の一つに腰掛けた。

ここも慧のいた部屋と同様の客室の一つだ。慧の部屋からさほど離れていないという事で、先程の騒ぎの被害者がとりあえずの処置として運び込まれている。

まぁつまるところ、たった今撃破したナマモノこそが二十七祖が八位にしてリィゾにとっては一応千年来の相棒と言えなくもない男、フィナ=ヴラド・スヴェルテンと言う事になってしまう訳だ、真に遺憾ながら。

「フ、フフフ、そんなクールで鉄血な君もステキさぁ……」

床で蠢きながらなんか呟いているのを完全無視し、リィゾは向かいの椅子を指し示す。御託はいいからさっさと座れと言うジェスチャーである。

こう言った一見冷酷なやり取りも、無論相手が全く気の置けない信頼すべき仲間だからこそできる事だ。そういう事にしておけ。

これ以上グダグダ時間をかけるつもりなら愛剣で軽く撫でてやるつもりだったのだが、フィナは存外にアッサリとこちらの指示に従った。変態なりの超感覚で危険を察知したのかも知れない。

「全く、貴様が珍しくやる気を見せたから任せてみたら……つくづく碌な事をしないのだな。あの悲鳴はかなりの距離まで聞こえていたぞ」

「ハッハッハ。まさかあそこまで痛烈な反撃を受けるとは思わなかったよ。おかげで危うくプラトニックに走るしかなくなるところだった」

「ああ、姫様が気に入るくらいだからどれほどの器かと期待したがこれでは失望だな。討つべきモノを討てる時に仕留め切れんとは情けない男だ」

「リィゾ……君、さり気無くエゲツナイ事言ってないかい? 主にボクに対して」

「気のせいだろう。これでも珍しく全世界の事を憂いた発言をしているつもりだからな」

一ミリグラムの情けも無い言葉に流石のフィナも顔を引き攣らせて沈黙した。そんなパートナーの様子を気にする素振りも見せず、リィゾは本題に入る事にした。

「それで? 任せた事はしっかり果たしてくれたのだろうな?」

「ああ。彼の部屋に盗聴器を十個ほど隠してきたよ」

ふむ、とリィゾは頷いた。

吸血鬼の打つ手としては如何かとも思うがこれが意外に有効な手段で、魔術や使い魔には敏感な腕利きの魔術師や代行者が機械類による監視にはサッパリ気付かないという事態が多々あるのである。アルトルージュの城とその周辺は神秘面だけでなく科学的にも様々なセキュリティが張り巡らされており、神秘方面に気を使うばかりに機械の探知にアッサリ引っかかった間抜けな『招かざる客』を多数排除してきたという実績があったりする。

「監視カメラは?」

「止めておいたよ。あれは見つかりやすいからね」

「そうだな……」

カメラという物は機構上どうしても写そうとする対象からも見える位置に設置せざるを得ない。その為ちょっと気を付けるだけで比較的簡単にバレてしまう。この監視はアルトルージュには内緒で行っているので、慧本人や他の使用人ならともかくもし彼女にバレようものなら相当の怒りを買う事になるだろう。少しでもバレる可能性を下げようと思えばフィナの判断は賢明だったかも知れない。

「よくやってくれた。まぁ盗聴器だけでも充分だろう。どうせ念の為程度のモノになるだろうしな」

「そうだねぇ。何か企んでいたとしても口に出すほど莫迦じゃないだろうしね。ああ、そういえば君はちゃんと彼と話したんだったね。どんな風に見えたんだい? 信用できそうかい?」

「……信用できるかはまだわからん。ただ変わった人間ではあったな」

面白そうなフィナの問い掛けにリィゾは先程面会したばかりの少年の姿を脳裏に思い浮かべた。

通常人間が吸血鬼に向ける感情と言えば恐怖と相場が決まっている。まぁ人間から見れば吸血鬼は忌むべき捕食者でしかないのだから当然と言えば当然だろう。

この城にも結構な数の人間が働いているが、その中でもこれを払拭する事は難しい。アルトルージュをはじめとした自分たちの主に全くの恐怖を抱いていない者など、長年仕えた古株くらいだ。これは生物としての本能的な問題なので、頭で大丈夫と理解できたとしてもあっさり納得する事はなかなかできない。ちなみにアルトルージュ専属のメイドであるリリィもアルトルージュ達を恐れていないが、これは彼女が物心付く前からこの城で育てられたと言うかなり特殊な環境ゆえである。

そしてこの感情は退魔や代行者などの吸血鬼に対抗しうる力量の持ち主になると侮蔑や嫌悪に摩り替わる。能力的に対等だったとしてもそうなのだから、吸血鬼相手に平然と接する事のできる人間などまず居はしない。それが死徒の中でも最古参に入るリィゾ達にとっての常識である。

だが慧の態度は人間、しかも退魔に携わるものが吸血鬼に向けるものとしては異常としか言えないものだった。彼からは恐怖も侮蔑も感じ取れない。アルトルージュから話を聞いていなければ何も知らない一般人としか思えなかっただろう。無論あの平然とした態度が演技でないという保証はどこにも無い訳だが、もし演技だったとしたらそれはそれで凄い奴と言える。

「へぇ、面白そうな子じゃないか。それはきちんとお付き合いしたいねぇ」

「止めておけ。今度は完全に去勢してやれと姫様が許可を出していらしたからな。如何なっても知らんぞ」

「……姫様もヒドイね」

「日頃の行いと言うヤツだろう。とにかくお前が七夜慧に近付くのはあまり巧くない」

「だったら如何するんだい? 監視役は必要だと思うけどね。幾らなんでもリリィじゃいざって時に対抗できないだろうし」

「わかっている」

吸血鬼に悪意を持たない人間というのは確かに稀少だが、それと信用云々は別問題である。確かに彼の態度には悪意は無かったが逆に言えばそれだけなのだから。もし故あれば彼はやはり平然とこちらに敵対するだろうし、表面上にこにこ笑って敵を欺く食わせ者の例など幾らでもある。

「何も我らが動かずとも適任がいるだろう。アレに任せるさ」

「……それってまさか」

「ああ。お前の考えている通りだろうよ」

「君、やっぱりエゲツないヤツだね……」

リィゾの浮かべた小さな、しかし凶悪な笑みに、フィナは思わずあの少年に同情した。

 

 

「ふぅ〜」

慧の部屋の前で一人のメイドが溜め息を吐いていた。

少し内側に巻いた髪をショートにした少女――アルトルージュの専属メイドにして、慧の世話係を申し付けられたリリィである。

そのすぐ傍には料理の乗ったワゴンが置いてあり、彼女が食事を届けに来た事は一目瞭然だ。

いつもは朗らかな笑みが浮かんでいる顔は強張り、全身から緊張のオーラが滲み出ている。その姿はほとんど注射を嫌がる子供みたいだ。

彼女の憂鬱の原因は言うまでも無くこの部屋の住人たる少年……ではなかった。

慧がこの城に滞在してから既に一週間。彼はリィゾをはじめとした一部の者の懸念を余所に特に怪しい行動をする訳でもなく、日がな一日与えられた自室でぼへ〜と大人しくしている。

唐突に現れた新顔に何やら刺激的なイベントを期待していた者も多かったのか、あまりに何事も無さ過ぎて拍子抜け等と言う声まで聞こえてくるほどだ。

(まぁ、そうでしょうね〜)

何せ彼らは直接接触しないのだから。もし毎日のように彼の部屋を訪れなくてはならない身になればそんな的外れな事は言っていられなくなるだろう。

そう、確かに慧自身は別段問題を起こしていない。しかし彼の世話係を任されてしまったリリィは彼とはまた関係無い部分での恐怖と対面する羽目になってしまったのである。

リリィはしばし呑気な顔で表面的な同情だけしてくれた同僚数名に脳内処刑をかましていたが、何時までも現実逃避していても仕方ないと気合を入れなおした。

例え気が進まなくとも仕事は仕事。増してや冷めた料理をお客様にお出しするなど侍女としての矜持が許さない。

――ゴンゴン

気負いからか少々ノックが強くなってしまったが、この部屋の住人はこの程度を気にする事がないのは理解している。

扉の向こうから応えがあったのを確認し、リリィは勢いよく扉を開けた。

「し、失礼します!」

「……そんなに怖いなら無理に入って来なくていいのに」

身体も声もカチコチになっているリリィにベッドの上で蹲っていた慧は呆れたような眼を向けてきた。

「いいいいいいえ! こここここれは私のお仕事です! 逃げ出しては任せて下さった姫様に申し訳があああ!」

「うん。とりあえずそういう台詞は震えずに喋れるようになってからな」

それだけ言うと慧は視線を自分の足元に戻す。そこにはゲーム中のチェス板が置かれていた。

数日の付き合いながら、ある程度彼の表情を理解できるようになってきたリリィが見るにあの顔はかなり困っている様子だ。おそらく負けているのだろう。

しばらく悩んでいた慧だったが、やがて一つの駒を摘み上げ、移動させた。しかし即座に打たれた一手に再び追い詰められた気配を放ち始める。

「それ、待ってくれたり……」

言い終わるより早く慧は微かに肩を落とした。どうも断られたらしい。

その様子を眺めながらリリィはまるで細い板の上を渡っているかのように慎重にワゴンを押してベッドに近寄る。だがそれもあと二メートルという所で限界が来た。

慧と向かい合ってチェスをしている“それ”がとうとう明確に知覚下に入ってしまったのだ。途端に先程から感じていた言いようの無い感覚が爆発的に膨れ上がった。

それは強いて言葉にするなら底の見えない断崖絶壁を見下ろす時に感じる恐怖に近い。人間に限らず真っ当な生物なら誰もが持たざるを得ない死への忌避感だ。

その感覚の発生源たる存在はチェス板を挟んで慧の反対側に座り込んでいる。その姿は一言で言うなら……毛玉だった。

どれくらい毛玉かというと、毛玉を二つ連結した本体部分に耳と尻尾、そして四肢にあたるであろうやや細長い毛玉が生えているくらいの毛玉振りである。

ある意味らぶりーと言えなくもない姿形だが、禍々しいとすら思える鮮血の色をした眼が全てをぶち壊している。そして人間なら誰もがその毛玉が見た目通りの存在でないと感じ取るだろう。

何を隠そうこの毛玉こそがプライミッツマーダー。死徒二十七祖の第一位にして『絶対殺人権』を持つガイアの化け物だ。

霊長――人類を殺す為だけに生み出されたこの生き物の気配はそれだけで人間に強烈な“死”のイメージを叩き込んでしまう。

その威力は強烈で精神力の低い者ならばそれだけでショック死しかねない程だ。実は意識もちゃんと保ち、震えながらも会話できているリリィはかなりマシな部類に入る。これも物心付いた時からアルトルージュの傍に居た事から培われた常人とは比較にならない程の耐性があるが故である。

しかし彼女のような例外ですらこれなのだ。もしプライミッツマーダーに対し、平然と接する事のできる人間がいるとすれば……それは精神が人の限界を超越した超人か、別の方向に超越してしまった狂人だろう。

さて、となるとその化け物とチェスなんぞ打ってしまっている少年は果たしたどちらになるのだろうか。

 

実は彼がこの城に滞在しだしてから程無く、プライミッツマーダーはこの部屋に頻繁に現れるようになったのだ。

これに怒りを見せたのがアルトルージュだった。元来霊長を殺害する為に生まれた存在であるプライミッツマーダーが人間に対し、好感情を持つ事は在り得ない。

現にこの部屋においてもプライミッツマーダーは例のプレッシャーを全開で放ちまくっていたのだから、これで好意的な興味を持って来てますと言われても信じるヤツなど居はしないだろう。

慧に関してはアルトルージュが事前に手を出さないように命じておいたので、プライミッツマーダーが彼に自分から接触する等というのは考えられない事だ。

ならばどういう事か。誰かの差し金に決まっている。と言うか間違いなくリィゾの仕業だろう。この城でアルトルージュを差し置いてこれだけの判断を下し、実行に移せる判断力と行動力、権限を持っているのは彼だけだ。

そう当たりを付けたアルトルージュは彼を問い質したのだが、彼は知らぬ存ぜぬを通した。あくまでプライミッツマーダーが慧のところにいるのは本人(?)の意思という事だ。そんな訳ないのだが。

まぁ彼の考えはわからないでもない。仮に慧が何か企んでいたとしてもプライミッツマーダーが四六時中張り付いていては文字通り手も足も出まい。正に「人に対する抑止力」という言葉の通りと言う訳だ。

彼がアルトルージュの意思を無視するカタチを取ってまでこの様な事をしたのは勿論この城に居る者、引いてはアルトルージュの事を想っての事だというのは理解している。が、只でさえ命を救ってくれた相手に失礼な対応をしていると負い目を感じている彼女としてはこの判断は納得のいくモノではなかった。

一時は止めさせようとするアルトルージュとリィゾの間に一触即発の雰囲気すら漂ったが、それを収めたのは慧の自分は構わないという言葉だった。

アルトルージュとしてはその言葉からちょっとでも無理をしている事が感じられたら彼が何と遠慮しようと断固止めさせるつもりだったのだが……心底どうでもよさそうだったので仕方ない。彼女は大人しく引き下がり、流石のリィゾもその反応には驚いたのか変な顔で慧を見ていた。

そういう訳で最近彼はほぼ一日中ここでプライミッツマーダーとチェスなどのゲームに興じている。

 

「……参った」

程無く勝負が付たようで、慧がリリィの方に向き直る。

プライミッツマーダーがベッドから離れて窓の方に行ってしまった事で、ようやくある程度圧迫感から開放されたリリィは慧のすぐ傍まで近付く事ができた。

「また負けられたんですか?」

「ああ……これで八十六連敗だな。できれば一勝くらいしたいとこだけど」

食事を受け取りながら、慧はちょっとだけ顔を顰めた。

リリィも彼と対戦した事があるが、彼は決して弱くない。むしろかなり強いと思うのだが、プライミッツマーダーには一向に勝てないようだ。あの毛玉は一体どこでチェススキルを磨いたのだろうか。

「あはは、まぁのんびり挑戦すればいいじゃないですか。時間は幾らでもありますし」

「それは無理だろ。俺、そろそろ出て行くし」

「ふぇ?」

 

 

「…………え?」

自分の執務室で大量の書類を物凄い速さで処理していたアルトルージュは、リリィの発したその言葉にポカンとした顔で手を止めた。

「…………」

――カリカリカリ

不思議そうな顔で書類に視線を戻し、サインを書く。数枚ほど処理したところでようやく「ああ」と声を出した。

「そうか。そうよね。そろそろ怪我も完治する頃だし、当然よね」

「それはそうなんですが……宜しいんですか姫様」

「宜しいって何が?」

「何がと言われても困りますが……。せっかくいらっしゃるんですから、今の内にもっとお話しておくとか」

「話、ねぇ」

言われたアルトルージュは顔に困惑を浮かべた。話と言われても彼と楽しくお喋りしているシーンなど想像が付かない。

だいたい今までもたまに会いに行ったりしたがその時もほとんど会話らしい会話などしなかった。今さら無理矢理話題を探すのも何か違う気がする。

だから答えは簡潔なものだった。

「ま、止めておくわ」

 

 

そして慧が城を去る日がやってきた。

最後に何かパーティーでもという意見も出たが本人によって辞退された。だから本当に、特別な出来事など何も無い。彼と直接関わった数人以外にとっては最初から何事も無かったのと同じだ。

アルトルージュはリリィを連れて慧を見送る為に城の玄関ホールに来ていた。

彼女の視線の先で、慧が荷を床に置いて振り返える。

「すまないな。わざわざ見送りに来てもらって」

「構わないわ。窮屈な想いをさせてしまったのだから、このくらいわね」

「そうでもない。割と楽しかった。リィゾやプライミッツマーダーにもよろしく言っておいてくれ」

あれだけ邪険にした相手が礼を言っていたと聞かされて一人と一匹はどんな顔をするだろう。

想像してアルトルージュは思わず笑みを漏らし、彼の言葉に頷いた。

「ええ、わかったわ」

「いや〜。慧は実に心が広いね! 流石ボクが見込んだだけはあるともさ!」

「アンタは無駄にテンション高いな。それ以前にアンタとは碌に会ってなかったと思うんだが」

「と言うかどこから湧いて出たのよ!」

何時の間にやらアルトルージュの後ろにフィナがいた。

唐突過ぎる登場にアルトルージュは我に返るのに数秒を要した。対する慧は平然と話を続けている。つくづく適応能力の高い奴である。

ようやく硬直を解いたアルトルージュが吐き出したツッコミを綺麗に無視し、フィナは絶叫した。

「そうなんだよ!」

「聞きなさいよ」

「なんでか知らないけどボクだけ君の部屋に出入り禁止令を受けてね。ボクとしても非常に遺憾だったんだよ……大事なお客様に寂しい想いをさせるなんて、こんな手落ちはウチの恥だと思わないかい?」

「どちらかと言うとアンタの存在自体が恥だと思うが。それに俺寂しいなんて言ってないし。むしろ来てくれなくてよかった」

「ふ、遠慮は無用だと言うのに……。そんな慎み深いところがまたいいんだけどネ!」

「アルトルージュ、コイツ会話してくれない」

「……いつもの事よ」

フィナを指差してこっちを見る慧にアルトルージュは疲れたように呻いた。

「おや姫様、何やらお疲れのご様子。いけませんね、せっかくの見送りにそんな顔をなさっては!」

「誰のせいだと思っているのかしら?」

苛立ちを込めた視線を送るも全て面の皮だけで弾かれた。

ちらりと慧の方に視線をやると流石にげんなりしているのがわかる。『霊長の殺人者』すら許容する彼も、変態の相手は堪えるらしい。変態の迷惑力はプライミッツマーダーの威圧力をも超えるという訳で、これはこれで凄いと言ってやるべきなのか。

まったく……コイツが絡むとこうなるとわかっていたから隔離しておいたというのに。

如何してくれようと睨んでいると、控えていた筈のリリィが音もなくフィナの背後に忍び寄った。

「フォーーーーー!?」

途端にヤバげな絶叫と共にフィナが卒倒する。

「…………何したんだ?」

「それは秘密です」

「アンタ強かったんだな」

「メイドの嗜みですから」

流石にビビッたのか、慧が僅かに眼を見開きながら洩らした言葉に彼女はにっこりと微笑んで答える。

そのまま気絶している白騎士の後ろ襟を掴むと城の奥の方に歩き出した。

「姫様、私はフィナ様をリィゾ様のところまで連行して参りますね」

「そうね。お願いするわ」

「はい。それでは慧様。どうかお元気で」

「ああ。リリィもな」

最後に一部の隙も無い一礼を見せてリリィは姿を消した。

残された二人は無言で顔を見合わせる。しばしの時間の後、その静寂を破ったのはアルトルージュの方だった。

「最後まで御免なさいね。なるだけ不快な想いをさせないようにと思ってたんだけど……詰めを誤ったわ」

「ま、あれは押さえようとして押さえられるものでもないだろ」

「……まぁね。骨身に染みてるわ」

「アンタも大変だな」

「もう千年近い付き合いだもの。慣れたわ」

「そう」

そう言って慧はふっと眼を伏せる。アルトルージュも言葉を止め、ホールに凪の気配が広がった。

どちらかが口を開けば、それが最後の会話になるだろう。本来部外者たる彼と会う機会など、おそらく二度と無い。

彼を見ながら、アルトルージュは悶々とわだかまる自分の感情と戦っていた。

何か、言いたい事がある。何も、言うべき事など無い。

伝えたい事があるならこれが最後の機会だと焦る気持ちがあるのに、そんな必要は無いと醒めた自分がいる。

彼が間も無く去ると理解してからそんな相反する想いがくるくると少しずつ、しかし次第に大きくなって渦巻き続けていた。

わからない。自分の感情の出所、この想いの根源が。こんなのは初めてだ。

今まで考えてもわからなかったのだ。この期に及んで唐突に答えを閃く事などあるまい。

だから今できる最善を。この別れを綺麗に済ませようとだけ決めてここに来ていた。

フィナの乱入がなくては慧とここまで話したりしなかっただろう。二、三言葉を交わすだけで淡々と別れていたに違いない。

そう考えればフィナの奇行はありがたかった。ひょっとすると彼はそれを見越してここに現れたのかも知れない。だったら本当に得がたい従者を持ったと言える。

だが感謝を言葉にする事はしないと決めた。そんな事すればあの馬鹿は調子に乗るに決まっている。この心構えこそが上に立つものに必要なモノであった。

なんかアルトルージュの思考が途中から全く明後日の方向にズレて行く中、慧が「さて」と呟いて床に置いていた荷物を担ぎ上げた。

「そろそろ行く」

その言葉に軽く慌てる。だが吸血姫としての矜持がそれを抑え込んだ。代わりに出たのは何とも可愛げのない台詞だった。

「そう。元気でやりなさい。まぁ貴方なら簡単に死んだりしないでしょうけど」

「ああ」

頷いて、慧は荷物を担ぎ直し、

「じゃあ、またな」

と言って歩き出した。

 

「…………また?」

慧の最後の言葉をアルトルージュはきょとんとした顔で復唱する。

それは再会を願う言葉だ。

ああ。

なんだ。

ただ、それだけの事だった。

何か、胸のあたりにつかえていたものがストンと落ちた感じがした。

だから、特別に言うべき事など見つかる筈も無かった。

探していたのはそんな平凡な言葉だったのだから。

アルトルージュは思わず微笑んだ。

「慧」

歩み去ろうとする背中にもう一度声をかける。

不思議そうに振り返った慧にアルトルージュは湧き上がるままの笑みと共に誓いの言葉を送った。

 

「また、会いましょう」

 

その言葉を聞いた慧の口元が、本当に注意しなくてはわからない程、僅かに綻んだのを彼女は見逃さなかった。

初めて見せた笑顔のまま、慧は小さく頷いた。

 

 

 

 


 

後書き

 

…………お待たせしました。いや本当に。

 

 

日常シーンて戦闘より難しいなぁというのが今回の教訓。

てかそれ以前に慧はあんま自分からトラブル起こすキャラではないのでこういう時はマジ動いてくれませんですハイ。

何個か無理矢理イベント捻じ込んだバージョンも書きましたがどうにもしっくり来ずに総ボツに。結果、序章最後としてはちと地味な内容になってしまいました。

 

プラ吉さんは毛玉です。見た目は激らぶりーです。でも怖いです。

あんまり怖いと城中から不評が殺到し、せめて見た目だけでもとアルトが取った苦肉の策が毛玉なのです。

でもギャップで余計に怖くなってしまって、ますます他の人との距離ががががが。頑張れプラ吉。本人別に気にしてませんが。

 

まぁ何はともあれ序章はこれでおしまいです。

次回からいよいよ舞台をあっちに移し、彼や彼女も登場します。私の腕で彼らの魅力を再現できるかが最大の不安要素だ(ぇ。

 

 

 

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